私のプロジェクトX

理事長 中山輝也

1.はじめに

私のプロジェクトXは未だ完成していません。このまま未完成で終わるのかも知れない。

地質学を専攻した者として社会的背景から専門職に就けず、専門分野と関わりがあるのだと自分を納得させながら、卒業後新たに独学で取得した技術で、民間、役所、さらに自営へと歩みました。そして、その技術で商売を始めてからの関わりで、地域間国際交流に足を踏み入れ、業協会団体をはじめ、更には経済団体にも関わるようになってゆきました。

現在に至るまでの状況を、少々生意気ですがドキュメントとして述べてみたいと思います。

崇高な考えを特に持っていたわけではないので、いわゆるプロジェクトXといわれるような確かな目的に挑んだことはありませんが、欲のない控え目な行動が周囲の先輩、同期、後輩のお蔭で、現在のようになったものと思っています。

この先、私の現役はこれからそう長くはないと思いますが、これからも、謙虚さ、そして常に感謝の気持ちを以て、完結に向かうことが出来ればと願うものです。

2.進路

昭和12年(1937年)4人の3番目として生まれました。90歳近い元教員の姉、高齢の為に廃業した医師の兄、妹は煙草を吸わなかったが肺ガンで最近他界。これが私の兄と姉妹です。

地方公務員だった実父は薄給のため、この4人を育てるのは並大抵ではなかったと思います。

そんな状況から設立間もない新潟大学に皆お世話になりました。私は文系が得意でしたが、現役で合格の可能性が高い地質鉱物学科に進みました。

この学科では、毎年2つの石油会社に2名程採用されたので、秘かに卒業時はあやかれると思っていました。残念ながら、エネルギー不況が石炭からついに石油まで行き着き、石油は輸入となり、探査などは必要なくなったため、採用されませんでした。

仕方なく公務員、教師か、電算機の会社などを模索しましたが、地質学を応用しているベンチャー企業を担任の教授から紹介され、結構難しい試験を受け、入社しました。現在は一部上場となっていますが、当時は僅か60名ほどでした。その頃、地質専攻者の就職先がないためか、在籍者も旧帝大出身者で、新制の大学では私が初めてでした。

土・日もなく深夜まで働きました。会社とは名ばかりで、何かの研究室のような感じでしたが、仕事は嫌いではなく、すべてが吸収できました。また、それなりに会社の役にも立ったようです。ここでの経験が、後の脱サラには結構役立ったことは間違いありません。

3.帰郷

2年経って、家庭事情もあり、新潟に住むことになりました。当時の新潟市には適当な職場がないため、新潟県庁の一般公開試験を受験し、どうにか合格しました。県庁は地質職を採用しないため、採用枠の多い土木職を選びました。夜行列車で公務員試験の問題集を一夜漬けで読み、専門の土木は習得していませんので、得意な政治経済など教養科目の高得点に望みを託しました。

陸軍の連隊長を経験した養父から、入庁の際、人の悪口を言わないこと、そういう雰囲気に同調しないこと、職員のレベルに差があるので、人付き合いは気をつけるようにと忠告を受けました。その通りに実行して11年を過ごしました。

地質出身でダム調査の経験を買われ、企業局などへ回されました5年後、土木部砂防課へ転勤となり、有能な上司のもとで楽しく仕事も出来、新工法の立案や、霞が関への対応まで行っていました。

5年経過して土木部河川開発課へ配属、その後、係長となり、結構大勢の部下を持ち、新規のダムの計画、本省協議など予算獲得のための業務なども担当させられました。
退職するまでの5、6年間は本当に面白く、ここで学んだことは、「立場で物事を言う」「筋には曲がり真っ直ぐの筋もある」。その間に文科系三大試験に匹敵する国家試験といわれた技術士に、32歳のときに合格しました。

4.脱サラ

地方公務員としては中間管理職の申し分のない日々を過ごしました。昭和48年(1973年)正月、衝動的に退職を申し出ましたら、上司は驚きましたが、独立はやむを得ないとしぶしぶ了承しました。辞めるまでの3か月は、針のむしろの心境でした。組織上は係長だが、上意下達の中で私を外す。辞めるからその必要がないということなのでしょう。

4月1日、5人で事務所を立ち上げましたが、借りた資本金400万円、これを使う以外に収入の道はなく、ガランとした事務所に射し込む春の陽ざしが眩しく、本当に不安な気持ちになりましたことを、今でもはっきり覚えています。

最初は下請けを考えましたが、間もなく、県庁出先機関から指名通知が入りました。「寄らば大樹の蔭」を敢えて拒否した「下海」に気心の知れた幹部や同僚が応援してくれました。意外なことに、見解の相違などで、私と対立した人からも支持されたようです。気心が知れた者が委託業務をやってくれるのは安心だともいわれました。

業協会も、在職中、知名度や地位向上の応援をしておりましたので、概ね好意的で、業務を斡旋してくれました。

数年間は倍々ゲームが続く。数億円を売り上げるのにそんなに時間はかかりませんでした。もはや中小企業の仲間入りでした。

すると、同業のやっかみも出て、根も葉もない中傷が起こる。その火消しに無益な時間を費やした時期もありました。

5.商売の中で

開業してから比較的順風満帆で推移しました。平成7年(1995年)には新潟県知事から新潟県経済振興賞、日刊工業新聞社賞を頂き、平成10年(1998年)には現在のジャスダック市場(当時の東京証券市場)へ店頭登録することができ、上場企業となりました。この頃から世間では公共事業のバッシングが始まり、1年で3億円から5億円くらいの受注減が数年続き、受注額は半減となりショックの連続でした。

人員整理等のリストラは行わず、人員の自然減と新規採用の中止、役員報酬カット、社員の賃金上昇を抑制に加え、経費の大幅節減で切り詰めました。この間に1期だけ赤字計上になりましたが、それに乗る形で特別損失を全て計上し、財務体質を強化しました。第2次安倍政権誕生以降の現在は、半減した受注が僅かずつ増加しています。

上場企業となって、経済団体、業協会、学会との会費や付合いも相当額に上りますが、極力冗費を節約し、その分を教育費にあて、社員の技術力向上に努力をしているところです。

6.国際技術交流

昭和54年(1979年)、所属していた日本技術士会から、中国視察の誘いを受け、竹のカーテンと言われた文革終焉直後を比較的自由に視察できました。

その夏、民間ベースで行われた中国三江平原農業基本建設産業団に地質専門家として誘いを受け、1か月にわたり黒龍江省を巡りました。昭和56年(1981年)、中国ODAが認められ、受注で地質部門を引き受け、技術移転も友好裡に行われ、3年ほど延べ4名で加わりました。

そんな関わりもあり、中国黒龍江政府の要請で新潟県対外科学技術交流協会を設立し、技術交流の窓口と、さらに合弁および独資会社を設立(12年、10年間で満期解散)。

様々な絡みもあり、中国への入国は100回をはるかに超えました。その間、旧ソ連崩壊時のロシア極東への技術協力と、資金で協力。韓国とは技術士会を通じて、毎年開かれるフォーラムの日本側責任者として最近まで務めました。その一方、技術士会絡みですが、東南アジア(ラオス、カンボジア、ミャンマーなど)で技術移転団の代表として参加。

これらを実績として見込まれましたのか、モンゴル政府の要請で、在新潟モンゴル国名誉領事館が設立され、新潟県知事、新潟市長の推薦、日本の外務省の了承で名誉領事に任命されました。当初はビザの発給業務もあったが現在は無くなり、専ら技術協力や経済交流の橋渡しをしています。

その一方で、公益財団法人新潟県国際交流協会理事長や公益財団法人環日本海経済研究所評議員を拝命し、北東アジア地域間交流に努めています。これも小さな社会貢献でしょう。

7.小さな社会貢献

1. 知足美術館の開館

企業は規模に合わせて社会に貢献するべきだと思っておりましたので、平成7年(1995年)、新潟県庁脇への本社移転を契機に、施工業者の勧めで、美術館を別棟として建設しました。2つのビルの間に、長さ12メートルの陸橋2本で繋いだ打ちっぱなしのコンクリートの長方形の建物が美術館です。平松礼二画伯と意気投合して「知足美術館」としました。

会社の所蔵品、賛同した方々による寄託品などを収蔵しています。コレクションされた美術品は人目に触れることが少ないため、これらを常設展示し、「良いものは誰もが見ることが出来る」という風土づくりに役立ちたいと考えています。さらには地元作家や若手作家の発表の場として、また科学技術の展示、郷土の先達の足跡を紹介しています。

平成8年(1996年)5月に開館して20年近くが経過し、不況の中でも、来館者のために、何とか灯を消さずにいます。果実が見込めないため、意図的に財団法人とせず頑張っていましたが、新潟県博物館協会にも加入し、所蔵、企画、個展等のユニークさで世間からも一定の評価を得ることができました。現在は一般財団法人で、公益財団法人に向け、手続き中です。

収蔵品は日本画、洋画、陶芸、北東アジアの絵画などの他、寄託作品もあります。目玉は保存状況の良い歌川広重の初版の保永堂版「東海道五捨三次」全55図です。この他、国際交流がもたらした、中国、韓国、北朝鮮の山水水墨画等も所蔵。地元のテレビ局、新聞社など、メディアがいつも応援して下さっており、美術館としての知名度も出てきました。

2. 音楽への特別協賛

会社が発展すると、社会への還元を考えます。会社は業績の良い時期、また不遇な時期もあり、時々に応じた社会貢献は必然です。一方では、社会への広報としてのメリットもあります。

創立20周年の記念行事として、平成5年(1993年)にスロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団(指揮スデニェック・コシュラー、ヴァイオリン千住真理子)に特別協賛、当社を支えた方々を招き、社員共々演奏を満喫しました。

本社屋「技術士センタービル」竣工記念として、指揮者シェーンヴァントのベルリン交響楽団に、平成8年(1996年)3月、特別協賛しました。

この他、機会を見つけて、リコーダーやフルート、チェンバロ、篠笛、津軽三味線の地元を含め一流奏者に出演してもらい、演奏会も美術館展示室内で随時開催しています。

3. 文化講演会など

平成12年(2000年)、京都仏教会墨跡展で、相國寺管長の有馬頼底師を御招待し「禅の山河」として、講演して頂きました。

また、薬師寺管長安田暎胤師の講演会を平成4年(1992年)および平成6年(1994年)に開催。平成17年(2005年)には、新井満の文学や北野大の環境関係の講演会も。

平成17年(2005年)は、石澤良昭上智大学学長による「天空の寺院アンコールワット」、平成20年(2008年)は、「お雇い外国人エッシャー・デレーケ」研究家で上林好之キタック顧問の講演が行われました。こんな講演会は数えきれません。

なお、社の創業40周年記念文化講演会は、平成25年(2013年)「公益の追求者 渋沢栄一」渋沢史料館館 長井上潤さん、平成25年(2013年)「現代版北前船~緑の船、日本海をつなぐ」チェンバロ奏者 明楽みゆきさん、平成25年(2013年)「地球深部探査船『ちきゅう』が切り拓く日本近海の海底資源:開発の現状」独立行政法人海洋研究開発機構 木川栄一さんの講演会を開催。これ以外に、美術館では毎回展示作家のトークショーや鼎談を実施、少しくだけて「なんでも鑑定団」の永井龍之介氏を招いて気楽な講演会なども開催しています。(平成26年(2014年))。

4. 社会福祉法人知足常楽会

私をはじめとして、日本の高齢化はますます加速し、自立が可能であっても不安であるというような高齢者が増えております。そうした需要に応え、ケアハウスを設置しました。これを設置することにより、地域住民への手助けとなることを趣旨としております。

平成18年(2006年)、社会福祉法人の設立認可を受けました。すべて個人寄附ですが、中心市街地に敷地を購入し建築しました。当面、金利を含めマイナスのため、これも寄附等で補てんしています。入居者は女性が圧倒的に多く、満室状況です。在宅介護も行っているが、不十分です。今後は特別養護老人施設も考えられますが、投資額が莫大であり、躊躇しているところです。

5. 財団法人環境地質科学研究所

すでに解散しましたが、平成元年(1989年)7月、財団法人産業地質科学研究所を設立しました。会社の営業とは異にして専門分野での社会貢献を目指しました。平成10年(1998年)には環境地質科学研究所と名称変更を行いました。その後、公益法人制度の改正時点で機能を会社に吸収して解散し、基金は社会福祉法人知足常楽会へ寄附し、環境関連研究へ役立つように工夫しました。

8.おわりに・地質冥利

決して地質が好きでこの道に入ったわけではありません。仕方なくこの道に入り、純粋な地質学からずれた土木地質が生涯の仕事となりました。新卒の時民間会社に入社して、僅か2年にも満たなかったのですが、深夜まで一生懸命頑張りました。嫌いだったら決して出来なかったでしょう。それでも土曜の夕刻、江東区からベントナイトがこびりついた作業服で、都電に乗って駒込の事務所へ戻る頃、通過する銀座では、繁華街を同年の洒落た若者達が闊歩していました。何となくうらやましかったのは嘘ではありません。また、東京湾で上半身裸で「シノ」を手に鉄線の八番線を持って、半身を海水に沈めて足場の組み立て作業も手伝いました。自分には、「今は研修の時だ」と言い聞かせ、深夜土日関係なく現場へ足を運びました。その後、ここでの経験は、商売の大きなノウハウになりました。

新潟県庁では、土木部で勤務し、業務に一生懸命努めました。前例踏襲の役所の中で、「マイナー」と言われた地質専攻者が、一般土木の業務を体得し、実績を積むことが出来、評価されていたことは本当にうれしいことでした。

自ら進んで行った苦労は全て自分のものになったと勝手に思っております。ベースとなる地質関連の学会を自ら設立したり、業協会からは助けられ、さらに日本技術士会からも本部で要職に就かせて頂き、精一杯働きました。会社が成長していく中で、上場を果たし、地元経済界からも注目され、新潟商工会議所、新潟県経営者協会でも参与を務めさせて頂いております。さらに新潟経済同友会で、幹事、副代表幹事を経て代表幹事を長期間務め、その間政策提言をすることが出来ました。今は顧問格の特別幹事に任命され、後輩達に大切にされており、他に数々の公的要職を頂戴し、身に余る光栄です。

その間、叙勲なども含め沢山の内外の賞を頂戴しましたが、何より嬉しかったのは地道な国際交流、福祉、社会貢献が認められ渋沢栄一賞を頂いたことです。

こんなことは、技術者ましては地質学専攻者では出来ないように思います。その意味でも、学んだ地質学を蔑みながら進んだ自分を恥じるとともに、専攻ではなくあくまでも自分自身が行う努力が第一であること、こんな年齢になって悟った次第です。

やはり、天の時・地の利・人の和に感謝の一言です。そんな中でも、私のプロジェクトXは永久に完結しないようです。

情報経営学会秋季大会特別講演(新潟国際情報大学中央キャンパス)を要約 H26.10.26