「知足荘」にて

参与 西巻道寛

私が「知足荘」で生活するようになってから3年経とうとしています。この施設は私が設計をさせていただいた建物ですから、実際に入居されている皆さんがどのような暮らしをされているのかがわかりますし、2年前から月の何日間は当直もあるので、より理解が深まったように思います。ケアハウスに生活する人は、自立していることが入居の条件ですが、このわずかな年月にも亡くなられた方や、老健施設に移られた方もいらっしゃいます。短期ながら病気になられ入院されている方はたいがい、早くリハビリを終えて再び「知足荘」に帰りたいと希望されている方もいらっしゃいます。

私は認知症の施設であるグループホームや老健施設も設計していますが、設計者がその施設の中で生活することはもとより、当直をするという例はほとんど無いと思われますので、私は貴重な経験をしていると言えます。

最近読んだ本の中に「名君の碑 保科正之の生涯」(中村彰彦著)があります。徳川第3代将軍家光の異母弟保科正之の生涯を描いた小説です。第2代将軍秀忠は正室お与江(NHK大河ドラマで「お江 戦国の姫たち」が数年前に放映されました)に頭が上がらず側室を持たなかったといわれていますが、それは姉さん女房であったお江与が非常に嫉妬深かったためとも言われていますが、ただ一人大奥で見初めた女性がおり、その女性は密かに男児を生みました。その男児は武田信玄の次女見性院のもとで生まれ、そのことは秀忠の側近数名が知っているだけでした。見性院らは信州高遠藩主の保科正光のもとに母子とも預けることにして、養父正光は自分の息子を差し置いて正之を高遠3万石の藩主としました。初めて江戸城に出仕したとき、正之が将軍の弟と知った大名たちは、上座に席を勧めても断ったといわれています。正之は老子の教えである「知足」を理解し実践し、武力による強さやお金、石高などの豊かさを全く気にせず、自分に満足し、引き回してくれた周囲の人々に感謝の心を忘れなかったということです。家光は自分の異母弟に出羽山形藩20万石を、その後会津藩に移封23万石(実質28万石)を与えるのですが、それは御三家のひとつの水戸藩に匹敵します。そして、臨終に際して正之を枕元に呼んで、第4代将軍となるであろう家綱の後見を遺言し、正之は終生そのことに徹します。だからといって国許の政治をおろそかにしたのではなく、むしろ幕府としての政治のさきがけになる事柄を会津で実施して見せたのでした。会津藩は松平の姓を与えられ、幕末には将軍家を最後まで守り続けたのはご存知の通りです。

中山理事長が館長として開館している「知足美術館」同様、私は「知足荘」という名称は他の同様の施設よりもはるかに相応しい、素晴しいものと確信しています。