2004年10月23日午後5時56分、中越地震が起きて震度7の揺れが多くの犠牲者と12万棟もの家屋の損壊等、生々しい被害現場の映像に私達は息をのんだ。その中で、4日後に自然の猛威に屈せず母子3人が土砂崩れにまきこまれた車から、当時2歳の男の子が奇跡的に救出されたのであった。テレビの現場を見た人は、一様に“ああ生きている!子供だ。”救急隊員にしっかりつかまり、暗闇から地上へと救い出された男の子は、「生きていた」のである。運命とは一寸先は闇である。しかし奇跡は事実であった。
そのY君も9歳になった。7回忌にはメモリアルパークの献花台に進み、母と姉への供花も供え、祖父母と一緒に手を合わせていた。思わず私も胸が熱くなった。そんな逆境の中から、Y君の将来を天国の母や姉もいつも見守っていてくれると、私も信じている。
そして、今年3月11日の東日本大震災である。「災害は忘れた頃にやってくる」新潟市内にも罹災者が、近くは新潟市体育館に避難者が身を寄せて合っていた。何か私に出来ることはと考えて、先ず冷蔵庫から包装済みの食品と衣類等を何点か段ボールに詰めた。“負けないで”がんばって!きっといい日が来るから、元気を出して生きてゆきましょう!とはしり書き等も入れて、体育館に届けた。その体育館の中は、段ボールで仕切られて毛布にくるまっている人も見えた。私は係りの人に段ボールを渡した。その時、走り出て来た子供の手を私はしっかりと握った。「大丈夫よ。今は我慢して、でもきっといい日が来るからね。大きくなってまた会いましょうね!」帰りの車の中で、私はそっと涙をふいた。体育館から今は避難者の姿はない。皆生きる為の道へと去ったのである。
当施設での避難訓練には必ず参加して、入居者同志が協力し合い明日への道を歩みたいと、私は晴れた青空を見上げて思いを深くしたのである。