旅のはじまり

居住者様の寄稿

馬がひた走りに走る。北海道開拓使次官の黒田清隆は、一路南部斗南藩をめざす。会津藩降伏後藩公 松平容保は隠退。実子容大には、斗南三万石の封地が与えられた。荒れ果ての地に、約四千戸の人達が片寄せ合って開拓にいそしんでいた。黒田清隆は、将来の人材育成が必要と考え外国留学の女子を推挙し、この選に当たった者の一人に斗南藩の家老の娘「山川咲子」がいた。咲子のアメリカ留学にあたり、家人は咲子を捨松と改名する。遠い旅路で捨てたつもりで帰りを待っていると云うのであろう。私は、永年の疑問は解けたが明治の人の心意気が感じられ感動した。

明治四年、留学生五十八名は横浜を出航。その中に、十二歳の「山川捨松」最年少である津田梅子も同行した。留学期間十年、日本に帰ると捨松が帰朝したのはちょうど鹿鳴館時代の初めにあたり、自ら西洋風の社交場に積極的に身を投じ忽ちにして、その学識と外国語を自由にあやつる才能が認められ、その美貌が鹿鳴館でも注目の的となる。

陸軍大将 大山巌は捨松をみて、百度参りをしてまで強引に結婚をせまり、ついに大山伯爵の夫人となる。会津藩 薩摩藩と云う敵同士であった。ちなみに兄は初代帝国大学の總長となる。

私は、会津には年に三回位は訪れる。雪を頂く鶴ヶ城 秋の閑かな農村風景、木々が色づき最後の輝きを放ち黄色からオレンジに燃える。色変りしていく季節の移ろいを、奥の会津では感じる事が出来る御薬園に寄り、昼食を頂きながら一服のお茶を頂戴するのが私の何よりの楽しみである。歴史と云うものは、さまざまな角度でみた時、私に色々の事を教えてくれる。
この度のテーマは、「山川捨松」であったが、一つのテーマを疑問詞とした時に旅ははじまる。旅と云うものは、私に無限のたのしさを教えてくれるのである。

平成二十四年五月 京都の旅 東寺にて
○初夏の旅 みぢかに仰ぐ 東寺かな
○お佛をおがむ 米寿や 初夏の旅