私が70才のとき、この施設を設けて15年も経ってしまいました。都市型ケアハウスなどと自負しておりますが、皆さんに満足していただいているでしょうか。
今回は、私が辿った人生の中で、思いつきの写真をランダムに挿入しながら、思いつくままを綴ってみました。
―自分の選んだ道―
本当に好きで専門を選ぶ人もいると思いますが、大抵の人は何となく今の道に仕方なく進んだのでしょう。
卒業後も自分の専門に進むことを希望する人も多いですが、必ずしもそうではありません。
それでは今の仕事は天職と思うか。いや、仕方なしに、成り行きに従っただけでしょう。
今、考えてみれば、会社を興すということは容易なことではありません。目標もなしに、ずいぶん無鉄砲なことをしたと、思い出してもゾッとすることもありました。
今なら「若手起業家」などともてはやされるでしょうが、当時は「脱サラ」と言われ、さげすまれました。
中国語では下海(シャーハイ)と言って、つまり欲を張って海に飛び込むことです。
冒険というより、何か悪いことでもするのかのようにと世間が見ていたかもしれません。
しかし、「寄らば大樹の陰」の恵まれた時期に退職し、商売を始めたことは、むしろ商売をやる上で余裕となったのかもしれません。
商売をやっていると時間が過ぎるのは、まさに光陰矢の如しです。些細なことで一日が過ぎ、つまらないことで一か月が過ぎ、何だかわからないうちに一年が過ぎてゆく。そして半世紀です。
サラリーマンと異なるのは四六時中、緊張感をもって行動していたことでした。これは全責任を背負うもの以外には考えられません。
ただし、良いこともあります。ひとつは定年を自分で決められること。もうひとつは配置転換を命じられないこと。それ以外では資金繰りから始まり、決して、良いことはほとんどないと云ってよいのです。
―思い出すこと―
①村上
(幼少期)
小さな城下町村上で仮住まいをしていましたが、町は武士と町人に区分されていて、のどかな武士の町の幼稚園に通う、その後お人好しの多い町人の国民学校へ。
幼稚園には木製の三輪車が沢山あり、結構楽しみました。明治節でリンゴ一個を頂き、白いハンカチで大切に包み、持ち帰った記憶がよみがえります。これでなごみや、優しさが身についてきたと思います。
(小学1年)
警戒警報の中で、父がスタンドのシェードの下で新聞を読んでいると、漏れた光を見て、外から巡査が飛び込んできて非国民呼ばわりしました。
ある時は自転車の荷台に乗せてもらっているところを、巡査に見つかり怒鳴られました。
その高飛車な態度に子供心に腹が立ちました。父親が怒鳴られたのは情けなかった。これが威張る者への反感となってゆきます。
集団疎開児童が村上へやってきました。村上弁と違ってさわやかで早口です。子供心に親元を離れて生活することを気の毒に思いました。
学校では「分け隔てなく、仲良く」と教えられましたが、月日が経つと集団で対立気味となります。教師は口先だけでなく、児童にとけ込んで指導すれば良かったのにと思いました。
(終戦)
防空壕に逃げ込み、艦載機グラマンが去るのをじっと我慢して待つのは本当につらかったです。
玉音放送。皆、沈黙して悲しんでいるようでしたが、何となく皆、ほっとした雰囲気にも汲み取れました。皆、これまでただただ我慢し続けてきただけだったのでしょう。
瀬波から米軍上陸、バケモノのような大型車両は自らが布設した機雷を避け、路盤を液性限界をはるかに超えて、砂利道を瞬時にドロドロにしてゆきました。しかし、初上陸の米兵は教養度が高いと子供心に気づきました。
流暢な日本語でMPが交通整理を行っていました。一か月ほど前までの「鬼畜米英」とは全く異なり本当に親切でした。ところで、その時、日本の巡査はどうしたのだろう。米兵上陸の数か月、米兵の犯罪は皆無だったと聞きました。
②新発田
(小学3年)
新発田の家の近くには旧日本軍の憲兵隊があり、敗戦後に憲兵隊は武装解除されました。その空の建物には在日朝鮮人が我が物顔で落ち着きなく出入りし、独特の濃い紫色や緑色のズボンが印象に残りました。その時は嫌だな、と感じましたが、社会人になってからは韓国朝鮮系の親しい友人も多いのです。
(中学1年)
中学校は城の中にあり、旧軍隊の兵舎を使っていました。新潟大学教育学部の新発田分校があり、実習を兼ねた教生が常におりました。私に対して威張る兄とは異なり、彼らからやさしく指導を受けました。
ただし、英語は社会科の教師が担任で、発音を含め稚拙で、転校した新潟市の学校では通用せず英語嫌いとなり、今でも困っています。
③新潟
(中学2年)
転校した関屋中学校では教室が不足しており、県立の工業高校の教室を使用していました。
きれいに整理整頓されており、設備も面白く楽しそうだったので「工業高校へ進学したい」と希望しましたが、「お前は凡人だから、普通高校へ行き、大学に進学しなさい。実力があっても学歴社会なのだから」と説得されました。
(高校2年)
校舎が丸焼けとなり、残ったのは体育館くらいです。そこへマントを引っ掛け、足駄で闊歩する上級生を真似たら「俺たちがやるのはいいが、下級生がやるのは面白くない、脱げ」と。反論、抵抗はできませんでしたが、こんな妙な理屈はないと思います。
(高校3年)
進路を決める時に「法学部へ進みたい」と言うと、父は「お前に向かない」と。さらに、弁護士資格を持つ叔父を例に「三百代言」と軽蔑しました。「技術を学べば、派手なことはないが安定する。それが分相応」と。
(大学4年)
地質学科の指定席のはずの石油開発関係(帝石、石油資源)へ就職がなくなり、仕方なく土木の分野へ進みました。
・養父の言葉(就職時)
「世の中にはいろいろな人がいる。生まれつきの性格、家庭での教育、その後の環境、自分の尺度で相手を計らないよう客観性が必要」
「地元企業や役人、教員でなく、新進企業へ就職したことは良かった。これからは海外の時代だ、海外へ行くことも出来る。さらに人間の繋がりも広くなる」
④東京
80人ほどのベンチャーの中小企業ですが、旧帝大出身がほとんど。私と広島大が最初の地方大出身者でした。そこで東大卒の3人、深田淳夫社長、そして大矢暁、羽田忍課長2人の指導を直接受けました。
現場帰りの土曜の午後、都電からは同世代の若者が銀座を闊歩しています。うらやましくも感じましたが、今は修行の時と言い聞かせました。毎夜午前2~3時まで働きます。結局2年で力尽きました。
辞める時、上司の大矢さんには「君のここでの2年は博士課程の大学院を出たようなものだ。ここの1年は3年くらいに計算すべき」と励まされました。
この頃、同期を含め退職者が結構おり、東京都など地方自治体で採用された大多数が定年時、上席の技監クラス以上の地位で辞めています。私以外、優秀な者たちです。
ここでは、「要領よくのみ込むこと」「あまりしつこく人に聞かないこと」「責任の自覚、つまり最後の責任は自分のところへ」 また、それに対する「慎重な対応」「人に迷惑を掛けないこと」「若くとも一人前として扱うこと」「平易な文章力」「丁寧な言葉遣い」を学びました。以降の社会生活で役立つことを沢山身につけました。大切なことでした。
⑤再び新潟
・実父の言葉(結婚時)
「若い時は貧しいのだから、無理して貯金の必要はない。今の生活費に充てて、人生を楽しむことだ。お金は時期がくれば廻るものだ」
・養父のアドバイス
「県庁に入るのか。仕方がない。一旦勤務したら、他人の悪口は言わないこと。上司の命令は必ず実行し、背くことのないように。ただし、理不尽な指示には正論をもって対処すること」
(閉口したこと)
・現在は決してないでしょうが、コピー機を使い、相撲のトトカルチョ。午前11時過ぎ、出前のラーメン。
・組合幹部が昼休みに職場にオルグに来て、碁をしていた職員に対し「碁盤をひっくり返してもいいんだぞ」と脅します。
・特定の新聞を同僚や部下に購読させようとします。
・官官接待。儀礼的なものが多く必要であると思いました。それは常識的には会食で1~2時間で終了します。その後「これから俺たちの時間だ…」が長く続くのが問題なのです。
(そんな中で)
重用され任され、極めて楽しく仕事が出来たことにいまでも新潟県庁には感謝しています。
―脱サラ後―
・退職動機について
新潟県庁在職は、企業局5年、砂防課3年、河川開発課3年のわずか11年でしたが、砂防課、河川開発課では恵まれた環境。霞が関での協議が多く、4割くらいが東京でした。
退職の動機らしい動機は全くなく、ただ、上司や同僚が沢山いるので、昇進も望めそうもないと思い、「技術士」を活かして地味に暮らせると思っただけです。
―戒め(佐藤一斎の言葉)―
「起業家が成功する条件は周囲を取り巻く環境、周りの人々、それに幸運に恵まれたことにほかならない。偶然、その事業が時勢受けしたり、自分の性や地域性に合っていたり、部下や同僚、友人、そして先輩に育まれ、いわゆる天の時、地の利、人の和に恵まれて成功する。成功すると、それまでのことはすっかり忘れ、すべて自分ひとりの実力であると思い込んでしまうものが多い。取り巻きも悪いが、やたらと威張り、自分の考え方に固執し、先人、恩人の忠告に耳を傾けることができなくなる人が意外に多い。そして、自分中心に世の中が回っていると勘違いする。これは事業に失敗したり、倒産することより始末が悪く、周囲にとっても大変迷惑なことである。」この言葉と常に意識して行動しています。
―起業の三条件―
起業の三条件は「人物」「技術(製品)」「市場」であるが、起業家への融資の第一ポイントは「人物」であります。したがって大切なのは人物です。
―知足―
おのれの分際をわきまえて、貪りの心を起こさない。(禅林句集)
「知足美術館」「知足常楽会」説明するまでもありません。
儲けようとする者には適さない言葉です。
―善人の悪―
いくら善人でも、善に対して正義に対して弱い人は駄目で、為すべきことを為し得ないのは、結局〝零の人間〟。(玉川学園創立者 小原國芳)
―孔子(論語)―
義を見て為さざるは勇無きなり
―偽悪家―
ある著名人に、「小説家で誰が好きか」と問われ、「井伏鱒二。何とも言い難い風刺的なユーモアが…」と答えました。「貴方は偽悪家だ」と返ってきました。その後はずっと偽悪家気取りです。
井伏鱒二には一寸意地悪いユーモアがあります。
しかし、見かけ以上の「人情深さ」、必要以上の「はにかみ性」、その結果受動的に鋭く働く「感受性」もあります。
「冷たさ」もありますが「冷徹」ではありません。冷静が物事の本質を見通しているのです。
一方、「人見知り」をする。好き嫌いが激しい。直接争いごとは極力避ける。したがって井伏鱒二と重なると勝手に思っています。井伏鱒二の短編は「山椒魚」「鯉」「屋根の上のサワン」などが楽しい。
―社会貢献―
「長者の万灯」より「貧者の一灯」
―不老―
年を重ねただけで人は老いない。
夢を失った時、初めて老います。
夢は実現できないものの、その実現に向かってどこまでも近づこうとする努力を指します。
(詩人サミュエル・ウルマン「青春」より。訳:新井満)
思いつきで、とりとめのないことを書きました。お許しください。