“ノスタルジア”黒崎茶豆を口にする時…

見た目も美しく、美味しい黒崎枝豆

見た目も美しく、美味しい黒崎枝豆

もう冬です。枝豆の話をするのには、少々ずれているかもしれません。

40年以上前のことです。1981年(昭和56年)日本が初めて中国へ行なった政府開発援助(ODA)の技術協力で、ダム建設の地質調査のため中国東北部の黒龍江省の奥地に、長いときは3カ月以上にわたり滞在していました。

当時、中国の農村では、国営農場と行政を兼ねた人民公社が併存していました。中央政府の計画経済の中で何につけても恵まれていた国営農場、それに対し、すべての収入を公社の生産収入に頼る人民公社。国営農場と人民公社の差別は、強烈な印象として残っています。

そんな中で、個人に与えられた10坪にも満たない自留地の農作物は、宝物のように手入れが行き届き、美しく実っておりました。

私の滞在した中露国境、つまり辺境の地は四季の移り変わりがとても早いのです。春になれば、すぐに大河の氷が割れ、野山は百花斉放です。この光景は本当に素晴らしい。

ずっと昔から嫁取りもこの季節でした。かつての“はやり歌”にもありましたが、「♪~春よ三月 雪どけに… お嫁に行きます となり村わんさん待っててちょうだいね!」。北の辺地で暮らす農民すべてが、春を待ちこがれているのです。

春が過ぎ、夏までは黙々と農作業が続き、やがて収穫も間近となります。秋です。一瞬の雨が降り、その後、雨はさらに数回降って森の黄葉が始まります。温度の低下とともに葉が色づき、素晴らしい紅葉に。といっても、緯度が高いため、ここでは紅葉ではなく「黄葉」、見渡す限りの全山が真っ黄色です。神秘的な雰囲気に吸い込まれてゆきます。落葉後は、間髪を入れず乾燥して、厳しい寒さを伴った冬将軍の到来です。砂ぼこりが舞い上がり、火気厳禁となりますが、それでも山火事は起こります。そうです。「♪~おお道よ 立つ塵埃寒さにふるえ 茂るブーリャン…」。ダークダックスでお馴染みのロシア民謡で歌われている、あのもの悲しい雰囲気の中で、その後、住民は仕方なく長い冬を過ごすのです。

ここで住民は冬ごもり。あとは再び訪れる春を待つしかありません。中国全土に改革開放の嵐が吹く中でも、この辺境の地に取り残された者の生活は、解放前とそう変わりませんでした。たぶん、日干しレンガの家が焼きレンガに変わり、テレビが備わったくらいでしょう。中国国内の東西格差、そして都市と農村の格差の中で置き去りにされていたのです。

見渡す限りの耕地(大豆畑)。中国 黒龍江省三江平原(1981.9)

見渡す限りの耕地(大豆畑)。中国 黒龍江省三江平原(1981.9)

四輪駆動車もぬかるみの悪路にはまる(1981.9)

四輪駆動車もぬかるみの悪路にはまる(1981.9)

春夏秋冬、季節と合わせた生活の日々。そんな中でのある夏の終わり、中国側技術者、通訳、運転手そして私の4人の1チームがジープに乗って、仕事の途中に広い国営農場に立ち寄りました。そこに植えられていた大豆を見て、少々悪戯心がわき上がりました。たまたま日本から持参したコッフェルで運転手が大豆を茹でていると、運悪く(?)国営農場の人たちに見つかったのですが、農場の幹部にも気心が通じたのでしょうか、たぶん“大人の遊び”と感じてもらえたのでしょう。逆に「どうぞ、どうぞ」「こっちの方がおいしいですよ」とご馳走になってしまいました。

この地域には戦前、日本人が満蒙開拓団としてたくさん入植していたのに、なぜか「枝豆」の食べ方を現地の人たちに伝授しなかったようですが、それが不思議です。それにしても機械化農業で量産の大豆は決しておいしくはなかったはずなのですが、現地での長い滞在で、ノスタルジアにおちいっていたのでしょう。黒崎茶豆がそのこの頃から出始めましたが、茶豆のおいしさを思い出しながらいただいたためか、あの日の事が忘れられない思い出となりました。

今は、黒崎茶豆はブランド品ですが、ごく普通に流通して誰でも入手できます。ともあれ、新潟の夏はやはり黒崎茶豆をつまみに生ビールをキューッと一杯。今夏も楽しみました。これがこたえられませんが、杯を手にする時、黒竜江省でのあの日の“あの味” がよみがえってきて、しばし、私の懐かしの思い出に浸れるのです。